今回は、その品川区巡検の内容を紹介したいと思います。
品川区巡検のテーマは「台地・低地・埋立地それぞれの地形と、都心からの距離に応じて、どのような街並みの違いが見られるか?」です。
巡検テーマの解説 |
まずは品川区の大まかな位置と地形から。
品川区の地形は以下のように分かれます
- 目黒川の北側にある淀橋台(下末吉面)
- 目黒川の低地
- 目黒川の南側にある目黒台(武蔵野面)
- さらに南にある久が原台(下末吉面)
- 海側の低地
- さらに海側の埋立地
…以上の地形がそれぞれ異なる街並みを見せています。
- 目黒川の北側にある淀橋台(下末吉面) → 城南五山の高級住宅街
- 目黒川の低地 → 工場から再開発され高層ビル・高層マンションへ
- 目黒川の南側にある目黒台(武蔵野面) → 木造密集地と元気な商店街
- さらに南にある久が原台(下末吉面) → 郊外の高級住宅地
- 海側の低地 → 品川宿
- さらに海側の埋立地 → ウォーターフロント再開発
それでは、地形ごとに巡検スポットを見ていきましょう♪
淀橋台(下末吉面)の城南五山
目黒川より北側の台地は「淀橋台」と呼ばれる、武蔵野台地で最も高い台地面になっています。そんな淀橋台には、城南五山と呼ばれる高級住宅街が多数並んでいます。
城南五山の位置 |
御殿山
高級住宅街、城南五山の一つが「御殿山」と呼ばれる地域です。城南五山は、御殿山・八ッ山・島津山・池田山・花房山という、目黒川北側の台地の総称。江戸時代の大名屋敷が高級住宅地になったものである。江戸時代はおおよそ目黒川が江戸と農村との境で、そのキワにこうした大名下屋敷が立地していたわけだ。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
(巡検の思い出) pic.twitter.com/bcORS7ryYA
※御殿山が武蔵野台地の中の「下末吉面」であるか「武蔵野面」であるか、明確にはわかっていませんが、どちらかというと武蔵野面である可能性が高いです。下末吉面の括りで御殿山を紹介してしまいすみません…。
台地と低地の境目にて
台地と目黒川・海側の低地との境を感じる場所を通りました。ちなみに、台地と低地の境の崖の連なりは「崖線」と呼ばれています。
大崎から御殿山へ
目黒川の低地にある大崎から、御殿山に登る、急坂での一コマ。高低差によって左右の椅子の高さが異なっています。これに目をつけた巡検参加者さすが!目黒川沖積低地から台地に上がる坂の途中。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
(巡検の思い出) pic.twitter.com/l04UuSDiQe
椅子の座面が水平になるように、脚の長さが左右で調整されています。
急な崖線を感じる、地形を利用した椅子です。
品川神社
品川神社は、台地の突端に作られています。品川神社は、台地の末端、縄文海進時の海食崖と目黒川の低地に突き出した突端に位置する。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
台地の上に富士塚が作られており、とても見晴らしがよい。南側は目黒川の低地で開けているため、江戸時代には富士山が見えたのだろう。
(巡検の思い出) pic.twitter.com/LSCXzoSRIZ
— up (@g9e1o7) August 10, 2019さらに、台地の突端の上に「品川富士」と呼ばれる、富士塚が作られています。
「低地と台地の境」という高低差に加えて、「富士塚」の高低差もあり、とても見晴らしの良いスポットです。
目黒川の低地
目黒川河口と品川宿
目黒川の河口は、中世から湊として栄え、近世(江戸時代)には東海道の宿場町として栄えました。
江戸から南西方面では、目黒川が「江戸」と「農村」の境をなしていました。
その目黒川の河口に位置する品川宿は、ちょうど江戸と農村の境目。
「これから江戸を出るぞ」「ここから江戸だ」そんな位置に品川宿があったのです。
品川宿には「聖蹟公園」という公園がありますが、ここは品川宿本陣跡です。京都から江戸へ赴く明治天皇が、江戸入城に際してこの本陣で装束を整えたことから、「聖蹟」公園となっています。
江戸から南西方面では、目黒川が「江戸」と「農村」の境をなしていました。
その目黒川の河口に位置する品川宿は、ちょうど江戸と農村の境目。
「これから江戸を出るぞ」「ここから江戸だ」そんな位置に品川宿があったのです。
品川宿には「聖蹟公園」という公園がありますが、ここは品川宿本陣跡です。京都から江戸へ赴く明治天皇が、江戸入城に際してこの本陣で装束を整えたことから、「聖蹟」公園となっています。
品川宿。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
東海道、江戸から一番目の宿場町の雰囲気が残っている。宿場町のご多分に漏れず江戸庶民の行楽地でもあった。宿場町西側には寺が並んでいて、地形図で見ると壮観である。
(巡検の思い出) pic.twitter.com/YVM77LRM4Q
目黒川の河口は、砂州と呼ばれる砂浜によって、大きく左(北)へ曲がって、海へ注いでいました。
この目黒川を遮っていた砂州の上には「猟師町」という町が広がっていました。
荏原神社の参道が変な角度で(現)目黒川へ向かっていることも、目黒川が大きく蛇行していたことの名残です。
なお、江戸幕府は幕末に、台場を東京湾に建設しましたが、そのうち一つは目黒川河口の砂州の先端に作られました。この目黒川を遮っていた砂州の上には「猟師町」という町が広がっていました。
荏原神社の参道が変な角度で(現)目黒川へ向かっていることも、目黒川が大きく蛇行していたことの名残です。
目黒川の河口は昔は砂州で大きく曲がっていた。砂州には漁師町があり、浜に打ち上げられた鯨の慰霊碑もある。この砂州で波が遮られる地形のおかげか、中世から品川は栄えていた。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
(巡検の思い出) pic.twitter.com/c7XQz4eHpR
現在の台場小学校がその跡地で、灯台のレプリカや解説看板が置かれています。
江戸幕府は台場を建設。現在の品川区立台場小学校の場所にも御殿山下台場を建設した。御殿山下台場は陸続きの台場で、御殿山の台地の土を削って運んで作った台場である。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
灯台のミニチュアが置かれている。
(巡検の思い出) pic.twitter.com/MZ669SN7SH
大崎の再開発
目黒川は、河口から上流へ上ると、台地にはさまれた低地を作っています。
目黒川の低地は、江戸時代までは水田でしたが、明治時代以降、
- 都心に近いこと
- 低地で水田であったため大きな土地が得やすいこと
- 目黒川の水運が使えること
こんなことから、工場が立ち並ぶようになります。
しかし、工場は産業の空洞化に象徴されるように移転されるようになり、再開発やマンションへの転用がされています。
再開発の代表的な例が「大崎」の再開発事業です。
大崎は東京都により「副都心」に指定され、再開発が進みました。
※副都心:上野/浅草・錦糸町/亀戸・池袋・新宿・渋谷・大崎・臨海の7地域が指定された。特に大崎は既存の工業地帯を一新して業務地区とする、他の副都心とは趣向の異なる地域である。
大崎は副都心として大規模な再開発が進んだ。東京都は副都心として7箇所を指定したが、既存の市街地を指定した新宿・渋谷・池袋・上野/浅草・錦糸町/亀戸とは異質な存在。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
明治以降、目黒川の沖積地低地に多くの工場が立地。その工場が再開発された。
(巡検の思い出) pic.twitter.com/fQIYqjJV3D
目黒川の低地には高層マンションが何棟も建設されている |
五反田駅付近から大崎駅方面を望む。 奥には大崎付近の高層マンション |
荏原台(武蔵野面)の住宅地
荏原台は明治時代までは農村でした。
農村の様子が一変するのは関東大震災。
関東大震災で下町で焼け出された人々が東京周辺の農村に住み始めます。
鉄道の開通も相まって、関東大震災後に急速に住宅地化しました。
木造密集地は、大地震の際には火災が延焼する可能性が高く(路地が狭いので消防活動が行えない)、道が狭いため車の交通に不便です。
それらの問題を解決するために、都道が建設中です。
農村の様子が一変するのは関東大震災。
関東大震災で下町で焼け出された人々が東京周辺の農村に住み始めます。
鉄道の開通も相まって、関東大震災後に急速に住宅地化しました。
都道建設地
関東大震災後の急速な住宅地化により、路地の狭い木造密集地が形成されました。木造密集地は、大地震の際には火災が延焼する可能性が高く(路地が狭いので消防活動が行えない)、道が狭いため車の交通に不便です。
それらの問題を解決するために、都道が建設中です。
都道の建設現場から、関東大震災後に住宅地化した木造密集地の様子が見て取れます。品川区の目黒川より南側(荏原台)は、関東大震災以降に急激に宅地化したことから、木造密集地帯であり、防災・東西交通のための道路建設が進んでいる。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
なお、もっと南の旗の台・洗足・田園調布・都立大学といった住宅地は十分な整備の上での宅地化により、高級住宅街となっている。
(巡検の思い出) pic.twitter.com/F2oqQNOj4J
商店街
木造密集地で悪いことばかりではありません。
木造密集地の人口密度の高さを背景に、多くの元気な商店街があります。
特に有名なのが戸越銀座商店街と武蔵小山商店街です。
品川区荏原地域の各商店街の特徴はこんな感じです↓戸越銀座商店街は木造密集地帯の人口密度を背景とした活気のある商店街。武蔵小山商店街と比べて食料品が多くて食べ歩きができる。— up (@g9e1o7) October 5, 2019
地形的にはまっすぐに細長い谷地に商店街が伸びる。
関東大震災での銀座の瓦礫を使ったという由縁で日本初の「○○銀座」である。
(巡検の思い出) pic.twitter.com/eQYO30hTPR
立会川と品川用水
荏原台のなかには立会川や、目黒川の支流の川が流れています。しかし、そういった川の谷を離れて、台地上に上がると水が得られません。
そこで、江戸時代に武蔵境駅付近で玉川上水から水を分けて、品川区まで用水路が引かれました。
この用水路が「品川用水」です。
古い地形図を見てみると、品川用水が立会川の上を渡っている箇所も確認でき、当時の高度な土木技術で水が引かれていたと推察されます。
妙な曲がり方をしている道が品川用水跡だったりして、品川用水の面影探しも面白いかもしれません。
昔は農村だった
品川の荏原台は江戸時代には近郊農業が盛んで、いろいろな野菜を江戸へ供給していました。江戸から下肥が肥料として農村に供給され、農村から野菜が日帰りで江戸の市場に運ばれていたのです。
目黒のタケノコ、世田谷、練馬のダイコンも同じような話です。
(余談)さらに外側へ
関東大震災後の急な住宅地化によって、木造密集地となった品川区ですが、もっと都心から離れると、旗の台・洗足・田園調布といった高級住宅街があります。これら高級住宅街は、品川よりも外側に位置しており、住宅地化のための耕地整理や宅地造成が間に合った地域です。
地形図を見てみると、品川区地域は、建物が総描(※)されている一方で、もっと外側の目黒区・世田谷区地域などは、建物が一つ描かれています。
※総描:建物や道路をまとめて描くなど、簡略化して表記すること
建物が総描(斜線)されている”木造密集地” |
総描されずに建物が描かれている”高級住宅地” |
品川区の埋立地
品川区には多くの埋立地があります。そのうちの一つが天王洲アイル地域です。
天王洲アイルは、大正期に埋め立てが進み、倉庫が並んでいました。倉庫街だったが、アートギャラリー、ボードウォーク、タワーマンションをはじめとする再開発・リノベーションで運河沿いの綺麗な街になった天王洲アイル。ウォーターフロント開発の典型例である。 pic.twitter.com/Zk536cYbCa— up (@g9e1o7) August 10, 2019
1990年代から、倉庫がリノベーション・建て替えがなされ、再開発が進みました。
いわゆるウォーターフロント再開発の典型例です。(→関連記事「豊洲―都心回帰とウォーターフロント開発―」)
まとめ
「地形と、都心からの距離による、街並みの違い」これを感じていただければ幸いです。今回の巡検記事は、学術的な解説よりも「街並みや地形を感じる楽しさ」が伝わればと思って書きました。
みなさんも、街の歴史や雰囲気の違いを感じる旅をしてみてはいかがでしょうか。
— up (@g9e1o7) October 5, 2019
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