2019年4月28日日曜日

新大久保 ―「インナーシティ」と「エスニックタウン」―

4回目の記事になりますが、早速更新をさぼっておりました。
記事の日付は遡って4/28にしています。

さて、新大久保をご存知でしょうか。
コリアンタウンと言われる、韓流ショップが集まる街です。

そんな新大久保から、地理学の「インナーシティ」「エスニックタウン」というキーワードが見えてきます。


★インナーシティとは

Wikipediaで調べると
インナーシティ とは大都市の都心周辺に位置し、住宅・商店・工場などが混在する地域
と出てきます。

バージェスというアメリカの社会学者が、都市の内部を下の図のように分けて考えました。この図のうち2番がインナーシティと言われる地域です。
バージェスの同心円モデル
都心のまわりの2番がインナーシティ

都市が発展する前に都市の外縁部(郊外)で、工場が立っていたような地域です。
都市が発展して大きくなるにつれて、都市の内部に取り込まれていきます。
都市の外縁部として工場や、工場労働者向け住宅が建てられていますが、都市の内部に取り込まれる中で、低所得者が住む場所に変わっていき、低所得者の集住による都市問題が発生するとされています。
都心にすぐに行けて(交通費をかけず仕事場に行ける)、一昔前の工場労働者向けの格安住居が残っているので、低所得者が集まるというのである。
このようなインナーシティには、スラムやエスニックタウンができるとされている。
インナーシティにあたる場所は、土地の価値が上がらずに、
取り残されていくと論じられている。

あくまでも、バージェスさんが、アメリカのシカゴを参考に唱えた説ですが…。
あまり日本ではインナーシティと言われる事例はないですが、新大久保は一種のインナーシティと言われることがあります。

★エスニックタウンとは

まず、用語の定義から。
①「エスニックマイノリティ」= 少数民族のこと 例)日本で暮らす韓国人のこと
②「ホスト社会」= エスニックマイノリティを受け入れる社会のこと 例)中国人や韓国人を受け入れる日本社会のこと

ホスト社会の中で、エスニックマイノリティの人々が生きていくための戦略と、その戦略によるエスニック景観が文化地理学で研究されてきました。

《同胞向けのエスニック景観》

エスニック景観の一つが、同胞向けの商業です。
ホスト社会の中でも、母国の文化を維持できるような商店・サービス・宗教施設が立地します。
しかし、まだまだホスト社会に溶け込めない時期には、あまり目立ちすぎないようにひっそりと暮らすことになります。

《文化を売り出すエスニック景観》

エスニックマイノリティの人々が、ホスト社会に認知され、肯定的なイメージを持たれると、エスニックマイノリティは自分たちのの文化を売り出す戦略を取る場合があります。
新大久保では、韓流ブームによって、韓国文化がブランド力を持ち、韓流ショップが多く出店しました。これもエスニック景観の一つであり、マイノリティの人々が異国の地で適応していく戦略の一つです。


新大久保の位置と範囲 ―どこにあるの?

新大久保は新宿のすぐ北側にあります。


「新大久保」は新宿区百人町にあるJR山手線新大久保駅周辺を指す。

ちなみに、新大久保駅は日本初の「新○○駅」である。
大久保駅は、「大久保」よりもずっと西にあって、新大久保駅はより大久保に近い場所にあるが、大久保にあるわけではない。ちょっと違和感を覚える位置関係である。


新大久保の成り立ち

では、どのようにしてエスニックタウンができたのか、歴史を見てみよう。

町の形が作られた江戸時代

新大久保地域には、江戸時代には百人組という鉄砲隊が住んでいた。
この江戸時代の土地の形が現在も残り、新大久保の骨格となっている。
地形図を見てもはっきりとわかる区画。
江戸時代から続く細長い区画

新大久保にあるお寺
お寺の敷地も江戸時代からの区画で細長い
徳川家康が西からの防備、攻められた際の西への避難路として、百人組(鉄砲隊)をこの地に配備したとも言われている。
間口(道路に面する辺)が狭く、奥に細長い区画は、新田集落・街道集落に通ずる形である。敵に攻められても、間口で防備し、奥まで侵入させないための区画であると言われている。

ちょっといい郊外の住宅地になった明治時代

明治時代には、東京の「郊外」地域として住居が立ち並ぶ。
近くに軍関係の施設が多くあることから中・上級軍人の住居、また文士・革命家・宗教家も多く住んだと言われている。
今となっては狭い区画・細い路地であるが、当時としてはちょっといい家を作るのにちょうど良い郊外地域だったのだろう。
いわゆる、東京という都市が拡大する前に、東京の外縁(郊外)であったのが、この時代である。

郊外の移動

大正時代には、東京の「郊外」地域はより遠方へ移動する。
東京全体において、大正時代に都市がどんどん大きくなって、郊外が遠くへ遠くへ広がっていった。
田園調布が開発されたのも大正時代である。
関東大震災が発生したのがこの時代で、東京の中心部が甚大な被害を受け、人が外へ外へ移動したのである。
都市に取り込まれた新大久保の地域は、中・下級サラリーマン、中・下級軍人が住む住宅地となる。

インナーシティになった新大久保

戦後1950年に、歌舞伎町の開発が失敗して、歌舞伎町が歓楽街になっていった。
同年にロッテの新宿工場が開設される。
戦後直後からドヤ街(日雇い労働者の街)が形成されていく。
朝鮮戦争の動乱を逃れた韓国人が集まった。

江戸時代からの細長く細かい区画に加えて、歓楽街のすぐ裏、韓国人が創業者である工場の創業、都市の中でインナーシティとして位置という要素が重なり、外国(特に韓国)人口が増えたとされる。

1960年代には、歌舞伎町で働く女性・地方から上京してきた若者向けの木造賃貸アパートが建てられていく。
歌舞伎町の後背地として連れ込み宿が多く建てられた。
連れ込み宿(?)が残っている

1970年代には、スタジオやライブハウスが集まり「音楽の町」と言われるようになる。
「音楽の町」はあまりインナーシティとは関係ないですが、新大久保の歴史の一部なので紹介しておきます。
「音楽の町」中古楽器店
「音楽の町」楽器店

外国人人口の増加

戦後から外国人人口は多めだった新大久保。
その後、急激に外国人が増えた。
契機はバブル経済である。
1980年代のバブル経済期には、多くの外国人が流入した。

・1982年の「留学生10万人受け入れ計画」
・バブル経済による人材不足による外国人流入
・1990年の「入国管理法改正」
・韓国での「海外旅行自由化」
といった要因が挙げられる。
ただし、この時期には、外国人人口は増加したものの、エスニック景観は見られなかったという。

エスニック景観の現れ

バブル経済が崩壊した1990年代。
バブル経済期には土地の買い占めや、外国人の流入により、日本人の人口が減少し、商店街が衰退したという。
バブル経済が崩壊し、買い占められた土地があぶれてしまった。
「インナーシティ」と言われ、最も治安が悪いと言われていた時期である。
そんな空洞化した街に、増加していた外国人人口を背景に、同胞向けのエスニック店舗が出店し始める。
職安通りに韓国のお店、駅周辺にミャンマーのお店が集まったという。
外国語表記の不動産屋さん

宗教施設はエスニックタウンにおいて文化の拠点となる施設である
新大久保地域には多くの外国人が居住し外国人割合も高い
実は居住人口で言うと韓国・朝鮮より中国の方が多い
新宿区の韓国・朝鮮人の分布
やはり新大久保地域に多い

韓流ブームで一気にコリアンタウンに

2000年代・2010年代には第一次韓流ブーム・第二次韓流ブームが起きた。
「ヨンさま」が流行った時代である。日韓ワールドカップも開催された。この韓流ブームにより、外国人(同胞)向けのエスニック店舗が、日本人向けの韓流店舗に変わった。
最近では、韓流アイドルが人気で、アイドルグッズを売るお店が多くみられ、来街者をみると若年女性が多い。
人であふれる韓流ショップ
路地裏にも韓国ショップが出店している
韓国料理店

ここまでの話をまとめるとこんなところだろうか

  1. 細長い区割りという街の骨組みができた戦前まで
  2. 外国人集住の素地ができた戦後~1970年代
  3. 外国人が急増した1980年代(バブル経済)
  4. エスニック景観(外国人向け店)ができた1990年代(バブル崩壊)
  5. エスニック店舗が日本人向けに変化した2000年代(韓流ブーム)

以上が新大久保の成り立ちである。

これからの新大久保

①多様化するエスニックタウン

韓流ブーム以来、コリアンタウンとなってきた新大久保。
ただし、ここ近年で様子が変わってきている。

新大久保駅北西にはイスラムショップが集まる一画がある。
イスラム料理店


イスラムの食品店(いわゆるハラールショップ)

コリアンタウンのビルの上階にはネパール料理店が入るようになった。
ネパール料理店が4階に
ネパール料理 店内はネパール人しかいない。
ネパール料理 日本人でも入って注文できるのでご安心を

このように、韓国以外のさまざまな文化の景観が見れるようになっている。
よく見たらベトナムのフォー
これまで、ミャンマー→韓国、と地域に現れる文化が変化してきたし、路地裏に入ると、イスラム・中国・ベトナム・タイ・ネパールと様々な文化が垣間見える。
タイ料理
中国の文化施設

②社会への受容とコンフリクト

コリアンタウン新大久保は日本で有名な存在になった。公立小中学校での外国人学級、外国人向け不動産などなど、社会に受容されつつある。
一方で反韓デモ等々たまにコンフリクトが起きることもある。
(といっても街の外の人がデモを持ち込んできているだけなのだが…)

③再開発・地域の変容

近年、都心への再回帰が顕著で、東京ではどんどん再開発が進んでいる。
新大久保でも再開発されたビルが見うけられる。新大久保の駅舎も新しくなるようだ。
新大久保駅は改築中
中層でおしゃれなお店の入る駅ビルができるようだ
再開発後にはエスニック店はどうなるのか、外国人が住む街は続くのか。
再開発で建ったビル
カプセルホテルが入居する

また、大通りから路地に入ったところにあったラブホテルはバックパッカーや外国人をターゲットにしたホテルに転業しているホテルが目立つ。
路地裏にはラブホテルが立地しているが
外国人向けの格安ホテルに転業しているホテルも多い
歌舞伎町の傍でラブホテル街という、一般人からは忌避されるような街だったからこそ、エスニックタウンになってきたわけだが、奇しくもそのエスニックタウンの成長によって、世間の光を浴び、地域が変容しているのである。

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