2020年2月16日日曜日

千葉県旭市をめぐる

2020年2月9日に千葉県旭市を巡検してきました。
旭市は日本有数の農業地域であり、特徴的な集落の成り立ちも観察でき、魅力的な場所でしたので、報告をしたいと思います。
旭市の集落発展についてイメージ図



千葉県旭市の位置

旭市は千葉県北東部、太平洋に面する市です。
千葉県東部の九十九里平野の北端です。
チーバくんでいうと耳。

九十九里平野では、旭・八日市場・成東・東金・大網・茂原・一宮と、等間隔に都市が並んでいますが、その北端の都市となっています。
九十九里平野南部の都市が千葉市への人口移動を示しているのに対して、旭は周辺地域からの人口移動を受けていることがわかります。
旭市は九十九里平野北部の中心的都市です。
橋詰ほか2001より
九十九里平野の商業圏(1990)
橋詰ほか2001より
九十九里平野の通勤通学圏(1990)


九十九里平野の集落景観

浜堤に並ぶ集落

九十九里平野では、波によって運ばれた砂の列(=浜堤)が、海岸線に平行して何列もあります。
ものすごく簡単に言えば小さい砂丘が何列も平行してある状態です。
その浜堤と浜堤との間は低地(湿地)になっています。

九十九里平野では、この浜堤の上に集落が立地しています。
地形図を見てみると、浜堤の列に沿って集落も海岸に平行に細長く何列も続いていることがわかります。
黄緑色は砂丘や浜堤
水色や濃緑は湿地
赤斜線は埋め立て等の人工改変地
色別標高地図
集落と集落の間の低湿地は水田や溜池として利用されていました。
「新田」という地名も残っています。


また、納屋集落という景観もあります。
内陸にある集落(親村・岡)から、海岸沿いの集落(子村・納屋集落・浜)へ、分村したといわれています。
一般には「漁をするための納屋を海岸沿いに作ったら、それが集落に発展した」と言われていますが、詳しいところは言及しないでおきます。
岡と浜
地形図を見ると、岡と浜の関係がよくわかります。
親村「○○」と子村「○○浜」という地名が今でも残っています。
海岸沿いには魚の倉庫・工場

銚子街道沿いの町

九十九里平野北部では、千葉から銚子へ向かう「銚子街道」が台地と平野の境付近を通っています。
八日市場・東金などの都市は銚子街道沿いの町であり、旭の市街地も銚子街道の馬継町(宿場町)が起源です。

バイパス沿いの景観

九十九里平野では、国道(バイパス)沿いのロードサイドが栄えています。
(どこでもそうですが…)
駅前を見ると「ちょっと寂れているな…」と感じる場所でも、裏の国道に出るとたくさんロードサイド店舗が並んでいて車が多く止まっていたり。
車社会を感じます。


椿海干拓地の集落と農業景観

椿海とは

椿海は旭市に1670年まで存在した海潟湖です。
椿海の解説看板
もともと、下総台地に入り込んだ入り江だった場所が、砂州・砂丘・浜堤によって仕切られて、湖になったものと考えられます。
湖だった時には、仁玉川によって、湖の水が海へと流れ出ていました。
竹内1975より椿海干拓地の地図

椿海の干拓と集落、掘下田・島畑の景観

1670年に椿海が干拓されて、新田開発が行われました。

①古村と沖の集落
湖岸にもともとあった集落は「古村」と言われています。
干拓された椿海にある集落は「沖」と言われたりするようです。
開拓された順番を示す「一番割」「二番割」「三番割」という地名が残っていたり、古村「○○」が開拓した「○○町場」「○○地」という地名が残っていたりします。

また、干拓地に溜まった水を排水するための水路が、干拓地の周りを一周していました。
これは惣堀と呼ばれていました。
今でも、その名残と思われるところがあるようです。

②島畑・掘下田の景観
湖だった場所が全て水田に適していたわけではありません。
湖底だった場所のなかでも、土地が低い場所は一面水田として利用されています。
しかし、湖底だった場所のうちで、砂地の高まりである場所には、新田開発する集落が立地し、「島畑」「掘下田」と言われる景観が広がっていました。
竹内1975より島畑を着色した地図
竹内1975より
「島畑」「掘下田」とは、砂地で高い土地であるため、水田にすることができないときに、水田を作るために土を掘って水田として、堀った土を横に盛り上げて、そこは畑として利用していた景観です。
掘られた水田と、盛られた畑が交互に続く景観が見られました。
今でも、その名残と思われる高低が見られます。
島畑の名残と思われる段差

島畑の名残と思われる段差

島畑の名残と思われる段差


なお、静岡県浜松市にも島畑の景観がありますが(ブラタモリで取り上げられました)、こちらは洪水を避けるために土を盛り上げたもの。
椿海干拓地は水を得るために土を掘下げたものですので、景観は似ていても、起源は真逆です。

③湖底だった痕跡
貝殻が土に混ざっています。
まさに湖底だった証拠。
貝殻がたくさん



椿海干拓地の水利争い

椿海が干拓されたことで、水田は大きく増え、「干潟八万石」とも呼ばれました。
※実際は二万石ほどだったそうです。
しかし、干拓によって、水田に必要な水源が無くなってしまいました。

そこで、必要な水を賄うべく、溜池が干拓地を囲むようにたくさん作られました。
今でも溜池は多く残っており、埋められた溜池も公共施設に転用されているので、その名残がうかがえます。
溜池
溜池を作るためには、古村の土地が必要だったので、古村の土地を使う代わりに、干拓地の土地を古村に与えるといった措置も取られていたようです。

上流に近い水田から水を取っていくため、上流側と下流側の村で、水についての争いが起きていました。争いで亡くなる方もいたようで、慰霊碑が建っています。
また、排水も問題で、低い土地では排水が欠かせませんが、高い土地では水位を上げて水を得たいという思いがあり、用水路・排水路の水位を上げる・下げるで争いが起きていました。
排水のための川(秋田川)
それまで湖の水を海に流していた仁玉川(古川)ですが、新川という直線の排水路が排水を担うことになりました。
新川の排水機場

大利根用水の完成

椿海という大きな水源を干拓したことで、干ばつに長く苦しんでいた地域ですが、1950年に大利根用水が開通します。
大利根用水は、利根川から兼田貯水池という溜池まで水を引き、そこから東幹線・西幹線と、東西に分かれつつ、旭市に水を配っています。
トンネルで引かれる大利根用水
(西幹線)
多くのトンネルを利用して水が引かれています。

溜池のすぐ脇を大利根用水や総堀が通っていますが、

  • 溜池 → 江戸時代、台地の谷の水を集めて干拓地に配水した
  • 総堀 → 江戸時代、干拓地に溜まった水を排水した
  • 大利根用水 → 昭和時代、利根川の水を干拓地に配水した
と、似たようで異なる経緯のものです。
椿海干拓地の地形図
溜池や開拓を示す地名が確認できる


旭市の農業と畜産の発展

施設園芸団地の完成

旭市では早くからビニールハウスが使われ、1971年より県の補助で大規模な施設園芸団地も作られました。
橋詰ほか2001より
1995年の施設園芸(ビニールハウス等)の分布
ビニールハウス
ビニールハウスは地形図を見てみると、砂地で水田には向かない土地で多く見られます。
ビニールハウス
キュウリ・トマト・いちご・花きなどが栽培されているようです。
ビニールハウス

農業と畜産

旭市は農業も畜産業も出荷額が千葉県1位です。
全国で見ても農業は全国12位、畜産は全国5位です。
農業生産額
諸事情により千葉市は除いています

工業団地内に食肉公社があったり、食肉協同組合直売所があったりと、畜産が盛んなことがうかがえます。
食肉協同組合の直売所
畜産を支える食肉公社
千葉市を除く畜産生産額

九十九里平野では、もつ鍋を提供するお店が多く、これも畜産と関係あるのかなと思いますが、真相は定かではありません…。
もつ鍋
畜産が盛んだから?

航空基地の跡

地形図を見ていると、特徴のある施設として、四角い工業団地があります。
これは1942年に完成した海軍香取飛行場の跡地です。
十字に2本の滑走路が存在しました。
今でも工業団地の区画に名残があるのと、周囲には掩体壕がいくつか残っています。

まとめ

旭市では

  • 九十九里平野で特長的な納屋集落
  • 旭市特有の椿海を干拓した集落の様子

という、特徴的な2つの景観を観察することができます。

さらに、戦後に発展した施設園芸・畜産業も観察することができ、
巡検していてとても楽しい地域です。

みなさんも、ぜひ旭市へ

参考文献

今昔マップ
地理院地図(自分で作る識別標高地図、土地条件図)
仁平尊明 1998 千葉県旭市における施設園芸の維持と技術革新 地理学評論
竹内常行 1975 九十九里平野、特に椿海干拓地の島畑景観について 地理学評論
橋詰直道・石毛一郎 2001 九十九里地域における都市と農業地域の変容 地域学研究



余談…

九十九里には、魚屋さんが定食屋さんを併設していることが多い。

ハマグリ丼(卵とじ)と、ながらみ
どちらもこの地域の特産
はまぐり

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