2019年10月27日日曜日

品川区巡検

2019年10月5日に品川区をフィールドとして巡検を企画しました。
今回は、その品川区巡検の内容を紹介したいと思います。

品川区巡検のテーマは「台地・低地・埋立地それぞれの地形と、都心からの距離に応じて、どのような街並みの違いが見られるか?」です。
巡検テーマの解説



まずは品川区の大まかな位置と地形から。

品川区の地形は以下のように分かれます
  • 目黒川の北側にある淀橋台(下末吉面)
  • 目黒川の低地
  • 目黒川の南側にある目黒台(武蔵野面)
  • さらに南にある久が原台(下末吉面)
  • 海側の低地
  • さらに海側の埋立地
…以上の地形がそれぞれ異なる街並みを見せています。
  • 目黒川の北側にある淀橋台(下末吉面) → 城南五山の高級住宅街
  • 目黒川の低地 → 工場から再開発され高層ビル・高層マンションへ
  • 目黒川の南側にある目黒台(武蔵野面) → 木造密集地と元気な商店街
  • さらに南にある久が原台(下末吉面) → 郊外の高級住宅地
  • 海側の低地 → 品川宿
  • さらに海側の埋立地 → ウォーターフロント再開発

それでは、地形ごとに巡検スポットを見ていきましょう♪

淀橋台(下末吉面)の城南五山

目黒川より北側の台地は「淀橋台」と呼ばれる、武蔵野台地で最も高い台地面になっています。
そんな淀橋台には、城南五山と呼ばれる高級住宅街が多数並んでいます。
城南五山の位置
ちなみに、城南五山の「花房山」「池田山」「島津山」という地名は、そこに屋敷を構えていた大名の名前などに由来します。なお、正式な住所ではありません。

御殿山

高級住宅街、城南五山の一つが「御殿山」と呼ばれる地域です。

※御殿山が武蔵野台地の中の「下末吉面」であるか「武蔵野面」であるか、明確にはわかっていませんが、どちらかというと武蔵野面である可能性が高いです。下末吉面の括りで御殿山を紹介してしまいすみません…。


台地と低地の境目にて

台地と目黒川・海側の低地との境を感じる場所を通りました。
ちなみに、台地と低地の境の崖の連なりは「崖線」と呼ばれています。

大崎から御殿山へ

目黒川の低地にある大崎から、御殿山に登る、急坂での一コマ。
高低差によって左右の椅子の高さが異なっています。
椅子の座面が水平になるように、脚の長さが左右で調整されています。
急な崖線を感じる、地形を利用した椅子です。

品川神社

品川神社は、台地の突端に作られています。

さらに、台地の突端の上に「品川富士」と呼ばれる、富士塚が作られています。
「低地と台地の境」という高低差に加えて、「富士塚」の高低差もあり、とても見晴らしの良いスポットです。

目黒川の低地

目黒川河口と品川宿

目黒川の河口は、中世から湊として栄え、近世(江戸時代)には東海道の宿場町として栄えました。
江戸から南西方面では、目黒川が「江戸」と「農村」の境をなしていました。
その目黒川の河口に位置する品川宿は、ちょうど江戸と農村の境目。
「これから江戸を出るぞ」「ここから江戸だ」そんな位置に品川宿があったのです。
品川宿には「聖蹟公園」という公園がありますが、ここは品川宿本陣跡です。京都から江戸へ赴く明治天皇が、江戸入城に際してこの本陣で装束を整えたことから、「聖蹟」公園となっています。

目黒川の河口は、砂州と呼ばれる砂浜によって、大きく左(北)へ曲がって、海へ注いでいました。
この目黒川を遮っていた砂州の上には「猟師町」という町が広がっていました。
荏原神社の参道が変な角度で(現)目黒川へ向かっていることも、目黒川が大きく蛇行していたことの名残です。
なお、江戸幕府は幕末に、台場を東京湾に建設しましたが、そのうち一つは目黒川河口の砂州の先端に作られました。
現在の台場小学校がその跡地で、灯台のレプリカや解説看板が置かれています。

大崎の再開発

目黒川は、河口から上流へ上ると、台地にはさまれた低地を作っています。
目黒川の低地は、江戸時代までは水田でしたが、明治時代以降、
  • 都心に近いこと
  • 低地で水田であったため大きな土地が得やすいこと
  • 目黒川の水運が使えること
こんなことから、工場が立ち並ぶようになります。

しかし、工場は産業の空洞化に象徴されるように移転されるようになり、再開発やマンションへの転用がされています。
再開発の代表的な例が「大崎」の再開発事業です。
大崎は東京都により「副都心」に指定され、再開発が進みました。
※副都心:上野/浅草・錦糸町/亀戸・池袋・新宿・渋谷・大崎・臨海の7地域が指定された。特に大崎は既存の工業地帯を一新して業務地区とする、他の副都心とは趣向の異なる地域である。
目黒川の低地には高層マンションが何棟も建設されている

五反田駅付近から大崎駅方面を望む。
奥には大崎付近の高層マンション


荏原台(武蔵野面)の住宅地

荏原台は明治時代までは農村でした。
農村の様子が一変するのは関東大震災。
関東大震災で下町で焼け出された人々が東京周辺の農村に住み始めます。
鉄道の開通も相まって、関東大震災後に急速に住宅地化しました。

都道建設地

関東大震災後の急速な住宅地化により、路地の狭い木造密集地が形成されました。
木造密集地は、大地震の際には火災が延焼する可能性が高く(路地が狭いので消防活動が行えない)、道が狭いため車の交通に不便です。
それらの問題を解決するために、都道が建設中です。
 都道の建設現場から、関東大震災後に住宅地化した木造密集地の様子が見て取れます。

商店街

木造密集地で悪いことばかりではありません。
木造密集地の人口密度の高さを背景に、多くの元気な商店街があります。
特に有名なのが戸越銀座商店街と武蔵小山商店街です。
品川区荏原地域の各商店街の特徴はこんな感じです↓

立会川と品川用水

荏原台のなかには立会川や、目黒川の支流の川が流れています。
しかし、そういった川の谷を離れて、台地上に上がると水が得られません。
そこで、江戸時代に武蔵境駅付近で玉川上水から水を分けて、品川区まで用水路が引かれました。
この用水路が「品川用水」です。

古い地形図を見てみると、品川用水が立会川の上を渡っている箇所も確認でき、当時の高度な土木技術で水が引かれていたと推察されます。
妙な曲がり方をしている道が品川用水跡だったりして、品川用水の面影探しも面白いかもしれません。

昔は農村だった

品川の荏原台は江戸時代には近郊農業が盛んで、いろいろな野菜を江戸へ供給していました。

江戸から下肥が肥料として農村に供給され、農村から野菜が日帰りで江戸の市場に運ばれていたのです。
目黒のタケノコ、世田谷、練馬のダイコンも同じような話です。


(余談)さらに外側へ

関東大震災後の急な住宅地化によって、木造密集地となった品川区ですが、もっと都心から離れると、旗の台・洗足・田園調布といった高級住宅街があります。
これら高級住宅街は、品川よりも外側に位置しており、住宅地化のための耕地整理や宅地造成が間に合った地域です。
地形図を見てみると、品川区地域は、建物が総描(※)されている一方で、もっと外側の目黒区・世田谷区地域などは、建物が一つ描かれています。
※総描:建物や道路をまとめて描くなど、簡略化して表記すること
建物が総描(斜線)されている”木造密集地”
総描されずに建物が描かれている”高級住宅地”


品川区の埋立地

品川区には多くの埋立地があります。
そのうちの一つが天王洲アイル地域です。
天王洲アイルは、大正期に埋め立てが進み、倉庫が並んでいました。
1990年代から、倉庫がリノベーション・建て替えがなされ、再開発が進みました。
いわゆるウォーターフロント再開発の典型例です。(→関連記事「豊洲―都心回帰とウォーターフロント開発―」)

まとめ

「地形と、都心からの距離による、街並みの違い」これを感じていただければ幸いです。
今回の巡検記事は、学術的な解説よりも「街並みや地形を感じる楽しさ」が伝わればと思って書きました。
みなさんも、街の歴史や雰囲気の違いを感じる旅をしてみてはいかがでしょうか。

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